
「〝負〟の遺産」の周辺~「佐渡を世界遺産に」に学ぶ~
2022.9.28
今年度、基礎応用課程でご講義いただいた「佐渡を世界遺産にする新潟の会」専任講師の山田修さんより、学生の皆様へメッセージをいただきました。
(以下、原文のまま)
「佐渡島(さど)の金山」が目指している世界遺産登録への道筋がいささか不透明です(令和4年9月現在)。ユネスコ(国連教育科学文化機関)に国として登録申請したのに塩漬けになっていた?ようで、通常夏~秋ころ実施するイコモス(ユネスコの諮問機関)の現地調査がなかったのも頷けます。来年以降の登録に向け仕切り直しですが、この一年の遅延騒ぎを機会に、光り輝く金山だけでなく山の向こうに映る影の部分にも再三、再四思いが巡ります。
●佐渡に残る「流刑」地の歴史
佐渡はちょうど千年ほど前の平安時代に、砂金採取というゴールドラッシュに沸きましたが、8世紀以降の律令国家の下では、佐渡は伊豆や隠岐などと共に奈良や京の都から遠く、罪びとを追放する遠流(おんる)の地でもありました。戦国時代までの700年間に70人もの人たちが対象になったと伝わります。中には順徳上皇、日蓮上人、世阿弥らの著名な人々の名も見えます。
●過酷だった「無宿人」の運命
江戸時代になると代表的な刑罰に「遠島」が登場します。佐渡への流罪で、罪を問われ1700年ころまでに250人が対象になった、とされています。佐渡行きそのものが刑罰なので、監視のもとで自活していたようです。相川金山は金を求めて地底深く掘り進みますが出水が難敵。そこで動員されたのが「島送り」といわれる無宿人たちでした。飢饉や災害で江戸に流れ着いた若者を捕え、約1800人がまるで罪人のように佐渡に移送され、地下で使役された歴史が残ります。
●佐渡奉行のちの勘定奉行「石谷清昌」
「江戸市中の無宿人を佐渡金山の水替え人足に」と考えたのは、かつて佐渡奉行だった勘定奉行の石谷清昌。応じたのは老中・田沼意次(週刊「江戸」59号~佐渡金山と江戸の無宿人~)と言われています。田沼は、賄賂政治家などと評判はいま一つですが、近年は幕府の財政基盤の欠陥を見抜いての経済政策を次々打ち出したとの再評価もあります。そしてその政策の立案者は石谷清昌ではなかったか、との研究もあるようです。佐渡奉行としての経験が、良くも悪くも幕府の経済政策に生かされたのではと言えなくもありません。
●佐渡金山と朝鮮人労働者
佐渡金山の世界遺産登録への道がすんなりと行かず紆余曲折するのは、先の大戦中に金山で朝鮮人労働者が働いていた事が関係しているのでは、という見方もあります。彼らが金山で働いていたことは事実(広瀬貞三著「佐渡鉱山と朝鮮人労働者」)です。華やかな金採掘の一方で、こうした歴史の重なりは佐渡金山の"負の遺産"と言われますが、果て"負"なのでしょうか。佐渡金山をめぐる長く、深く、無宿人らの悲しみの断面もまた「佐渡(金山)の歴史」そのものではないだろうか、と思うのです。
【山田講師】
【講義の様子】
基礎応用課程2年次~実践者から学ぶ地域福祉と協働~
2022.8.4
令和4年度シニアカレッジ新潟2年次が5月10日に開講しました。
初回講義は当カレッジ副学長であり、支え合いの仕組みづくりアドバイザーである河田珪子講師から「実践者から学ぶ地域福祉と協働」と題して講義をしていただきました。
講義では、実家の茶の間・紫竹の立ち上げ当時のお話がありました。
周知方法として、ご挨拶に伺うことや回覧板でお知らせする方法の他に、近くの小学校に挨拶に伺いました。校長先生とお話しできたことから小学生の校外学習の場となり、子どもの話を聞いた親や祖父母達がどのような場所なのかと見に来てくれました。それが、その後の利用へと繋がったそうです。
新型コロナ感染症の影響により休止していた時期もありましたが、再開後は県外出身の学生や台湾出身の方々も実家の茶の間に訪れており、”誰でも通える場所”を実現しています。
最後に、実家の茶の間にあるテーブルからイス、スプーン1本まで、全ての物が地域の方々からのご寄付だと話されていました。地域の皆さんから様々な形で参加していただくこと、これが茶の間を運営する上で大切なことだと学びました。
【河田副学長】
【講義の様子】