お気軽にお問い合わせください

シニアカレッジ新潟

一緒に始めてみませんか?仲間と過ごすワクワクした時間

シニアカレッジ新潟ブログ

「佐渡島の金」を掬(すく)う ~「佐渡を世界遺産に」に学ぶ~

2023.8.8
 今年度、基礎応用課程でご講義いただいた「佐渡を世界遺産にする新潟の会」専任講師の山田修さんより、学生の皆様へメッセージをいただきました。

(以下、原文のまま)

 「佐渡島の金山」の世界遺産登録への道は剣が峰にあります。国により令和5年2月にユネスコ(国連教育科学文化機関)に正式に推薦され、夏~秋にかけイコモス(ユネスコの諮問機関)の現地審査を経て、同6年にはユネスコで審査・登録の可否審議にかけられます。イコモスは年明けの中間報告を含め春には<登録><照会><延期><不登録>の4段階の判定を示す予定で、推薦資産の価値評価や登録すべき遺産の保存管理状況を勧告するのです。

●佐渡は時の政権の〝宝物庫〟
 佐渡は奈良時代以降、越後と並んで国府がおかれた国の重要拠点でした。北方監視や海防への備えもあったでしょう。その拠点・佐渡で千年ほど前、西三川で砂金採取の記録が残っています。戦国時代には鶴子銀山、続いて相川金山の採掘が続きました。16世紀末には全国からの献上金の6割が越後・佐渡産でしたし、江戸幕府初期の年貢41万両のうち佐渡からの金銀上納額は8万3千両だったので、佐渡の金銀は当時の幕府財政の2割を占めていたのです。

●新聞小説「佐渡絢爛」に見る金山事情
 新潟日報朝刊で連載中の「佐渡絢爛」には、事件を絡ませて佐渡金銀山を巡る奉行所や鉱山労働者、町人らの葛藤が描かれています。江戸中期になると佐渡金山は枯渇し始める一方、水没した鉱脈を生き返らせる事業は〝佐渡の再生〟そのものでした。このブログ2回目に触れた佐渡奉行・荻原重秀も登場しています。幕府直轄領の佐渡は相川金山発見で全国から人が集まり、新田開発も一気に進んで石高は13万石。佐渡だけで長岡藩の倍近い石高だったのです。

●鉱石採掘から小判製造まですべて「手作業」
 「佐渡島の金」が後世に残すべき世界の遺産という根拠は、なんといってもそのすべてが手作業によることです。世界的に見ても類例がありません。採掘跡、水路、住居エリア等のほか数多く残る絵巻物や文化も重要な歴史の証人です。世界遺産は不動産が柱ですが、数多く伝わる〝物語〟も忘れられません。

●「世界農業遺産」と「日本ジオパーク」で「佐渡世界遺産」を掬う
 金山がもたらす物資の調達等で農業以外にも収入源があった佐渡には、下越地方に存在した大地主は育ちにくかったようです。自作農地には細やかに目が届きます。先に佐渡が世界農業遺産に選定されたことは偶然ではありません。また日本列島形成の縮図といわれ、日本ジオパークに指定されたことも佐渡の世界遺産登録への欠かせない構成資産ではないでしょうか。私は「世界農業遺産」「日本ジオパーク」という両手で「佐渡島の金」を掬い上げる構図(三位一体)も世界遺産登録への重要なポイントだと認識しています。


【山田講師】



【講義の様子】


 


「〝負〟の遺産」の周辺~「佐渡を世界遺産に」に学ぶ~

2022.9.28
 今年度、基礎応用課程でご講義いただいた「佐渡を世界遺産にする新潟の会」専任講師の山田修さんより、学生の皆様へメッセージをいただきました。

(以下、原文のまま)

 「佐渡島(さど)の金山」が目指している世界遺産登録への道筋がいささか不透明です(令和4年9月現在)。ユネスコ(国連教育科学文化機関)に国として登録申請したのに塩漬けになっていた?ようで、通常夏~秋ころ実施するイコモス(ユネスコの諮問機関)の現地調査がなかったのも頷けます。来年以降の登録に向け仕切り直しですが、この一年の遅延騒ぎを機会に、光り輝く金山だけでなく山の向こうに映る影の部分にも再三、再四思いが巡ります。

●佐渡に残る「流刑」地の歴史
 佐渡はちょうど千年ほど前の平安時代に、砂金採取というゴールドラッシュに沸きましたが、8世紀以降の律令国家の下では、佐渡は伊豆や隠岐などと共に奈良や京の都から遠く、罪びとを追放する遠流(おんる)の地でもありました。戦国時代までの700年間に70人もの人たちが対象になったと伝わります。中には順徳上皇、日蓮上人、世阿弥らの著名な人々の名も見えます。

●過酷だった「無宿人」の運命
 江戸時代になると代表的な刑罰に「遠島」が登場します。佐渡への流罪で、罪を問われ1700年ころまでに250人が対象になった、とされています。佐渡行きそのものが刑罰なので、監視のもとで自活していたようです。相川金山は金を求めて地底深く掘り進みますが出水が難敵。そこで動員されたのが「島送り」といわれる無宿人たちでした。飢饉や災害で江戸に流れ着いた若者を捕え、約1800人がまるで罪人のように佐渡に移送され、地下で使役された歴史が残ります。

●佐渡奉行のちの勘定奉行「石谷清昌」
 「江戸市中の無宿人を佐渡金山の水替え人足に」と考えたのは、かつて佐渡奉行だった勘定奉行の石谷清昌。応じたのは老中・田沼意次(週刊「江戸」59号~佐渡金山と江戸の無宿人~)と言われています。田沼は、賄賂政治家などと評判はいま一つですが、近年は幕府の財政基盤の欠陥を見抜いての経済政策を次々打ち出したとの再評価もあります。そしてその政策の立案者は石谷清昌ではなかったか、との研究もあるようです。佐渡奉行としての経験が、良くも悪くも幕府の経済政策に生かされたのではと言えなくもありません。

●佐渡金山と朝鮮人労働者
 佐渡金山の世界遺産登録への道がすんなりと行かず紆余曲折するのは、先の大戦中に金山で朝鮮人労働者が働いていた事が関係しているのでは、という見方もあります。彼らが金山で働いていたことは事実(広瀬貞三著「佐渡鉱山と朝鮮人労働者」)です。華やかな金採掘の一方で、こうした歴史の重なりは佐渡金山の"負の遺産"と言われますが、果て"負"なのでしょうか。佐渡金山をめぐる長く、深く、無宿人らの悲しみの断面もまた「佐渡(金山)の歴史」そのものではないだろうか、と思うのです。

【山田講師】


【講義の様子】


もっと見る…

もっと見る

上へ戻る